後輩指導×社会学

私は既に40歳過ぎてまして、会社でも中堅~ベテランの部類のおっさんです。

開発案件とかも後輩の指導を兼ねて、主:後輩、従:私、というパターンで進める
こと多いです。その進捗や方針は関係する社内の他部署のメンバーも宛先に入れ、
情報共有は必須。

 

とある日、そのメール内で後輩が「今度○○のテーマを営業部内で議論するので
決まりましたら報告します」とメール連絡。その後、またそのメールで日程調整
を開始。
私は「日程調整だけの内容なら営業メンバーのみにして、他部署の方へ余計な
メールが増えないよう配慮すれば」、とその後輩と営業部長のみを宛先にして
返信。
しかし、その前の後輩が全体へ発信していたメールに対して他部署の偉いさんから
「OOみたいなこともは検討してみては?」とアドバイスの返信があり。。

 

妻にこの内容を伝えたら「断定的に言うのはよくないよ、と(日程調整なら営業のみで)。あとは臨機応変じゃない?」 

 

さてさて、この「余計なことやっちゃった感」を社会学的に考えてみました。

 

今回のケースを、マックス・ウェーバーが提唱した行為の合理性という観点から

捉え直してみました。

 

形式的なルール:私の返信は「目的合理性」

        →無駄なメールで読み手の時間をロスさせない(という)目的

柔軟な対応  :他部署の偉いさんの返信は「価値合理性」

        →このメールは情報共有の場、テーマの質を向上する(という価値)を        

         高めたいという偉いさんの考え

 

今回のような「形式的なルール」と「柔軟な対応」ってのは永遠のジレンマを抱えて
いるように思います。配慮もありつつルール守ったら「頭かてーな」とか言われたり。

また、「形式的なルール」を社会制度(法や規範)、「柔軟な対応」を人 とも読み
替えれるかなと思います。

社会制度は長年積み重なって出来たルールや規範です。ただ、それは法的なもの
で無ければ破っても罰せられることは無い。一方、そのルールや規範の中で生きて
人間からすると破りづらいもの。逆に外部の人間からすると「なんでそんなルール
守っている?」という風にもなる。

なので私が気にした「無駄なメールは発信しない」というのは私の育った営業部の
「規範」であり、他部署からすると「全てのメールは情報共有の場」という「規範」

とは違っていたのかも。

でもそれは誰が悪い、とかではなくて、主食がコメかパンかみたいな文化の差異な
だけだからお互いは「そういう考えもあるんだな」と理解できれば良いこと。
良い・悪いという軸では無い。


今回の経験から学んだのは、「形式的ルール」と「柔軟な価値」のジレンマは、
組織や社会に常に内在する構造である、ということ。これはどちらが良い・
悪いの問題ではなく、「文化の差異」として理解し、イチイチ気に病まないこと
が大切かな、と。
また、一見悩ましく感じる出来事も、視点を社会学的にずらして構造的に捉え直す
ことで、大したことではないと気づけるケースが多いことも学びにもなりました

し、社会学の視点で物事を見る面白さに気付いた一件になりましたので引き続き

更新がんばります。